マインドフルネスという英訳の原語であるパーリ語のsatiは、「思い出す」を意味する動詞saratiの名詞形です。パーリ語は、2600年ほど前にブッダが教えを説いていた言葉に一番近いとされるインドの古代口語です。日本に伝わった漢訳仏教の伝統では「念」と訳されてきました。上に「今」、下に「心」という字で構成されています。思い出すことを語源的な意味に持つマインドフルネスの実践が、どうして「気づき(アウェアネス)」になり得るのかを説明するために、カナダやイギリスやアメリカで仏教瞑想を教えていた時に思いついた思考実験です。楽な姿勢でやってみてください。
次の順番で、自由にいろいろなことを思い出してみてください。
1秒前は、思い出そうとするだけで時間が流れすぎてしまい、言語的意識のレベルでは「私が、いつ、どこで、誰と、何を、どのようにしていた」のかを5W1Hを使って思い出すことはできません。1秒前を思い出そうとする中でできることは、ただ心を向けようとするだけ、見えているだけ、聞こえているだけの体験の流れに触れていること、呼吸の感覚や、心拍の感覚などを感じていることだけです。哲学では、純粋体験と呼ばれるものです。
こうしていのちの流れに触れているだけの純粋体験をしてみて、心地よく感じる人もいたでしょうし、何が何だか分からなくて不快だった人もいたことでしょう。心地よく感じられた人は「永遠に触れた」とか、「静けさに満たされた幸福な時間」と表現する人もいますし、合理的な思考が成立しないので何が何だかわからずに困惑してしまった人は「何が起こっているのか理解できず、居心地が悪かった」と感想を話してくれる人もいます。
マインドフルネスの実践は、呼吸を観察したり、あちらこちらへとさ迷い歩く心も観察したりしながら、この純粋体験と日常の言語的意識体験との間を自覚的に往復して、その多様で多層的な意識の中で何が起こっているのかをありのままに見つめてゆく実践です。純粋体験の方がいいとか、日常的な意識体験の方がいいとかではなくて、その間のスペクトラムをしっかりと見つめてゆくのです。
すると、どの辺で「私」という意識が生まれ、どのようにして私の思い込みが膨らんでいって、いつもの生きにくさや、やりすぎたりやれなかったりすることが出てくるのかを観察できるようになります。こうして喜怒哀楽や生き難さややりがいなどをありのままを見守ることができるようになるにつれて、「私」が自縄自縛している生きにくさのパターンが自然にほどけやすくなってきます。
ちなみに、あなたは言葉を使って考えるためには何秒くらいの時間が必要だと思いますか? 少なくとも3秒から数秒は必要ですし、人によると30秒とか1分必要だと言う人もいます。言語的思考が成立するために必要な基本的な単位時間です。哲学を本気でやろうとする人はこの問題を避けて通ることはできないと思いますし、この問題に取り組んでいない哲学は砂上の楼閣に過ぎないのかもしれません。現代では、赤ちゃんとお母さんの様子をビデオ分析で研究したダニエル・スターンが『プレゼント・モーメント:精神療法と日常生活における現在の瞬間』という本の中で詳しく解き明かしています。
マインドフルネスは、さまざまな意識の階層において、何をどのように思い出しているのかを明晰に見つめてゆく実践なのです。1秒前を思い出す思考実験から、この感覚を理解していただけると嬉しいです。
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