マインドフルネスは集中力と洞察力を巧みに組み合わせながら、日常生活のあらゆる場面で実践できるように構成されています。伝統的には止観(samatha-vipassana)と呼ばれる集中力と洞察力の組み合わせ方については、以下の4通りの仕方がアングッタラ・ニカーヤ(増支部 A.II.157.)に説かれています。 集中力を先に修行してから洞察力を養う...
天隨念をご紹介したので、仏教の世界観における神と阿修羅の関係について述べてみたいと思います。輪廻思想の中では、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六道輪廻が一般的ですが、その前は地獄・餓鬼・畜生・人間・天の5道輪廻だったようです。5道から6道に変わった理由は、高い能力を持った神々の間で争いが起こり、破れた神が天界から堕ちて修羅の世界ができたのだそうです。 高い能力を持った存在が争って堕天するというのは西洋の悪魔思想にも通じるものがありますね。ちなみに仏教の中での悪魔は、ブッダに付き従いさまざまに妨害したりちょっかいを出してきたりしますが、ブッダが悪魔を退ける時の決まり文句は「お前は、私によって見透かされた」というものです。闘う対象ではなく、その真の姿を見極める対象として悪魔が設定されていて、その居場所もちゃんとあったのです。悪魔は、生と死を恐れることの象徴だとされて、その働きは、人々を輪廻転生につなぎ留めておくことだとされています。解脱することは、悪魔の支配する範囲から出て行くことなのです。そしてブッダから見透かされた悪魔は、攻撃されることもなく破壊されることもなく、そんなブッダの風景の片隅で、困惑してつまらなそうに地面に絵をかきながらふてくされています。 『ホモサピエンス全史』を書いた博学のハラリは『ホモ・デウス』という本の中でテクノロジーによって神の領域に足を踏み入れた人類の未来について、人間至上主義によって不死と幸福を求め続けることの幻想性とデストピアに至る危険性を指摘しています。ちなみに、ハラリはマインドフルネス修行をしているようですので、この神と阿修羅の争いについて知っていたのかもしれませんね。 幹細胞やiPS細胞の技術による再生医療が進められ、生殖医療や遺伝子操作技術も加速する中で、コロナ禍を体験した私たちは、今こそ自分たちの中にある神性と阿修羅性をしっかりと見つめて、どちらをどのように使いこなしてゆくかについてマインドフルに取り組まなければならないのだと思います。 そのためには、今回の新型コロナウィルスの出所がどこであったのかについて情報収集を忘れてしまわない努力を続け、ワクチンで大もうけした人たちの仕掛けてくる罠にはまってしまわないように自分の健康を大切に守り、巧妙に戦争を作り出して金儲けをしている人たちの歴史と動きをしっかりと察知しながら、今ここの小さな日常生活の中に思いやりと公平さと正義を実現することを忘れないようにする心がけを積み重ねるマインドフルネスの実践が欠かせません。 波羅蜜と呼ばれてきた人徳を積み重ねる実践は、人類が六道輪廻の全てを生き切る可能性を知り尽くし、実践し尽くして、輪廻から解き放たれ、悪魔も阿修羅も手の届かないところに解放されて、神さまのことも忘れてしまっていいようになる実践なのかもしれないと思う今日この頃です。
お悟りが開けて、輪廻から解き放たれた人たちがよくやるという6隨念のひとつに天隨念があります。神さまのことを繰り返して想い出してみるマインドフルネスの実践です。私は「神さまになったっちゃた瞑想」と呼んで、生徒たちを神社に連れて行って、「さあ皆さんが神さまになったとしたら、お参りに来る人たちにどういう思いを向けてゆくでしょうか…」と話して瞑想してもらうことがあります。 天隨念をするためには、二つのステップがあります。最初は、神さまという存在はどのようなすばらしさや能力を持っているのかを考え、そのようなすばらしさや能力を持つようになるためにはどのような努力を積み重ねた(波羅蜜)のかについて考えを巡らせます。次に、自分にはそのようなすばらしさや能力があるか無いか、それらを獲得するための努力の積み重ねを実践してきたかどうかを考えます。そして、それらが自分にあるならば喜び、その喜びを生きる力にします。備わっていなければ、努力しようと願います。 この瞑想は、言葉を使い思考を巡らすので深い集中状態には入れませんが、このように思いを巡らせることによって心が澄み切り、落ち着いてきます。 さて、「神さま」の修行は何かというと、人々を守り導くことによって修行するのだそうです。人間は神さまにいろんなお願いはしますが、教えたとおりに実践する人は少ないですから、とても難しい修行だと思います。だから、神社に行ってこの瞑想をする時には、「あなたがもし神さまだったら、ここにきていろんなお願いはするけれども、ちっとも教えたとおりに実践しない人たちを、どのように見守り導くことができるでしょうか?」と質問をしてみます。 子どもを育てたり、人を教えてみたりするとよくわかるものですが、人は教えたとおりにはやりませんし、その人なりの仕方でしかできないものです。そのことを承知して、どのようにその人を理解して、環境を整えて、必要最低限の教えを提供してゆけるか、教えたとおりにはやらず、自分なりの仕方でしかやっていかない人間を見捨てずに見守っていけるかが修行になるのです。 生殖医療をはじめとする高度な科学技術で、神の領域に足を踏み入れてしまった現代人だからこそ、実践してみたいブッダの修行法です。 論文(『Devatanussatiに関する瞑想実践としての一考察』)のPDFはこちら ☞
死念は瞑想史上で最も難しいものの一つです。マインドフルネスの修行が軌道に乗り、完成の域に達してから実践したほうがよいと思います。でも、この死念の実践ができるようになると、毎日を、今この瞬間をとても充実して、ありがたい思いで過ごすことができるようになります。禅宗には「頭燃を払うがごとく」修行すべしという教えがありますが、その頭燃の原点がこの死念です。 呼吸を観察していて、今このひと息が最期のひと息になって、次の息が出て来てくれないこともありうるのだということを、身にしみて感じることが実践の中核になります。逆に言うと、呼吸瞑想の最高到達地点はこの死念の境地になると言ってもいいでしょう。「私」の死をリアルに受け入れながら、今この一瞬を生きてゆくトレーニングです。 これはキリスト教のメメント・モリの修行ととてもよく似ています。ブッダの教えは、遅くとも紀元前2世紀ころには中東やギリシャ地方には伝わっていたと思われます。アレクサンダー大王の東征によってギリシャ文化がアジアにもたらされたのと同時に、インドの仏教も中東やギリシャに伝えられたのです。アショーカ王による仏教伝道はギリシャに及んでいたという記録もあります。こうして中東に伝わり、ユダヤ教の密教を通してキリスト教の出現に秘かに流れていったであろうブッダの教えが、中世になってメメント・モリの実践として花咲いたのだと思うと歴史のロマンを感じますね。 いずれにせよ、死を忘れないようにすることで今ここの人生を充実させようという瞑想実践は、洋の東西を問わず、脈々と伝えられているのです。 関連記事がウェブマガジンに掲載されています。こちらもご覧ください。☞
マインドフルネスは、分子生物学者のジョン・カバットジンが1979年に「マインドフルネスに基づいたストレス低減法(MBSR: Mindfulness based Stress Reduction) 」を創始したことによって始まった心と身体の総合的なトレーニング体系の現代的なムーブメントです。インテイクとフォローアップの質問紙が充実していて統計的な解析がなされていたために、EBM(Evidence Based Medicine:...