マインドフルネスは集中力と洞察力を巧みに組み合わせながら、日常生活のあらゆる場面で実践できるように構成されています。伝統的には止観(samatha-vipassana)と呼ばれる集中力と洞察力の組み合わせ方については、以下の4通りの仕方がアングッタラ・ニカーヤ(増支部 A.II.157.)に説かれています。 集中力を先に修行してから洞察力を養う...
子育て中のお母さんやお父さんたちに瞑想を教えるようになって、赤ちゃんとお母さん(お父さんを含めた養育者:以下同様)の間で起こっていることをよく観察するようになりました。赤ちゃんをお膝にのせて、目を閉じて呼吸を感じるというようなこともやりました。お母さんが輪になって、その中で赤ちゃんを自由に遊ばせて、静かに赤ちゃんの様子を見守るという瞑想もやってみました。自分の呼吸や感情や思考を見つめるのと同じように、赤ちゃんの呼吸や感情や思考を見つめるようにお願いします。こんなことをしながら、世話しているお母さんやの呼吸や感情や思考を見つめていると、「えっ…」、「ア~」と思うことがよくあります。赤ちゃんのそれと、大きく違ってしまっているように見えることがあるからです。現実の赤ちゃんではなく、どこか別の世界にいる別なモノを見ているような気がすることもあります。 そんな時、自分にはこう見えていること、感じ取られてくることをどう伝えたらいいのだろう、その前にどう解釈したらいいのだろう、そもそも自分がそこで感じていることや見ていることは正しいのだろうか…という思いが強くなり、赤ちゃんとお母さんのことについてきちんと学びたいと思うようになりました。 ちょうどその時、トロントのセラピスト養成センターで学んだウィニコットのことを思い出し、『情緒発達の精神分析理論』から読み始めました。ウィニコットは、もともとは小児科医で、多くの母子を診察してきました。それから精神分析を学び、対象関係論という領域を打ち立てたパイオニアです。そんなウィニコットを読んでみると、そこに書かれていることは、私が親子の現場で感じていることにピッタリの言葉を与えてくれているような感じで、吸い込まれるように読み込みました。 ほどよい母親的環境、抱っこ、思いやる力の起源、ひとりでいられる能力、移行対象、錯覚と脱錯覚など、やっぱりそうなんだぁと思い当たることばかりでした。そして、そういう諸概念の根底には、「赤ちゃんは(一人では)存在しない、母親と赤ちゃんが一組になった存在があるだけだ」というウィニコット独特の見方(表現法)があります。 赤ちゃんに教えられた私のミッションは、赤ちゃんと一組になって存在しているお母さんたちに、今ここでのお二人さんの間で起こっていることに注意を向け、二人にとってより幸せな時間を過ごすための道のりを探すお手伝いだったようです。それは、二人一組になった人生の基本的カップリングから子どもたちが安心感と自信と思いやりを身につけて、一人になって旅立っていけるような発達促進的環境になるためのお手伝いでもあります。 現代社会において発達促進的環境になることは、私たちに与えられた進化の最先端の任務だと思います。私たちは哺乳類として共同保育をする中で言語を獲得し「私」という意識を獲得して進化してきました。そして動物行動学者カルフーンのユニバース25と呼ばれるマウス実験が示唆するように、地球という生態系の中で個体数が増え続けている人類がその社会性行動を維持してゆくためには子育て能力を失ってしまわないことが大切になるからです。 そのためにも、先ずは自分がブッダのマインドフルネスを子育て現場で応用実践してみて、分かったことや感じたことを子育て中の仲間たちにお伝えする試行錯誤を続けてゆくしかありません。そのための道案内人としてウィニコット先生に出会ったのだと思います。 ちなみに、『情緒的発達の精神分析理論』の原題は、Maturational processes and the facilitating environment でした。発達促進的環境が精神分析理論と堅い言葉で訳されてしまっています。言葉の理論で分かるということが、子どもの発達をファシリテートするための環境になれるということにつながるのだと思います。ファシリテーションをする人たちにはぜひ知っておいて欲しいことですし、子育てしているお母さんたちはすごい仕事をしているのだという自負心を持ってもらいたいと思います。
アメリカの精神科医J.リフトンの『現代、死にふれて生きる』という本の中に、「象徴的不死性」という概念が出てきます。死を安らかに受け入れるための準備としての条件が5つのタイプの経験に分類されています。...
私が還俗することを決意したきっかけは、赤ちゃんを抱っこした体験でした。トロントで仏教瞑想を教えていたころ、弟夫妻に赤ちゃんが生まれ、義理の妹のベッキーから「ウィマラ、祝福して」と生まれたての赤ちゃんを手渡されました。厳しい戒律を守るために長い間身体接触を制限していたたので、生身の赤ちゃんを抱っこする体験はとても怖く感じられました。指と指の間からこぼれ落ちてしまいそうな不安…とでも表現したらいいでしょうか。 でも、妹から目の前に赤ちゃんを差し出られた以上、受け取らないわけにはいきません。不安と緊張でこわばった顔で受け取ったのではないかと思います。すると、次の瞬間、自分でも思いがけないことが起こりました。赤ちゃんを抱きとめた瞬間、腹が据わって「よし、命をかけて守るぞ」という気持ちが湧き上がってきたのです。私は高校時代バドミントン部のキャプテンをしていて、「鬼の井上」と言われていた時がありますが、そのアスリート魂が一瞬のうちに蘇ってきたような感じでした。自分の中にまだこんなに熱い気持ちが残っていたのに驚きました。 ここまで修行をしてだいぶ探求を深めてきたように思っていたけれども、まだまだ人生の半分くらいしか探求出来ていないのかもしれない。これまでは修行の邪魔だと思い込んでいた家庭生活や子育ての中にも、瞑想修行で養った洞察力を応用して探求するべき世界が残っているかもしれない…、このまま出家修行を続けていっていいのだろうか、このままで自分の人生は本当に満たされるのだろうか? そんな疑問が頭をよぎりました。でもこれまで出家修行者として瞑想を教えてきたプライドがあって、「在家生活に戻るなんて…」という恥ずかしさのような怖さのような気持ちもありました。こんな気持ちの揺れ動きを、少し離れたところから見守っている自分もいます。 結局、私は半年間ほど悩んだ末に還俗する決意を固めました。赤ちゃんに肩をポンと押されたような感じです。その赤ちゃんも今は良き若者に成長して、先日来日して、神社で結婚式をしていきました。 そういえば、日本に帰国して最初に瞑想を教えてくれと頼まれたのは、子育て中のお母さんたちの会からでした。瞑想の智慧を子育てに伝えてゆくこと、私にはその使命があることを赤ちゃんから教えられた体験だったのだと思います。
もう20年近くも前のことになってしまいましたが、サンフランシスコの禅ホスピスプロジェクトを視察に行った時のこと。「『光が見える、光が見える…』って言っている人がいるんだけど、どう対応したものか困っている。たぶん君の専門分野だと思うので、行ってみてくれないか」と、突然にご指名を受けてしまいました。...
家族で宮古島に旅行した時の写真です。本当は八重干瀬のサンゴ礁を一緒に楽しみたかったのですが、波が高くて船が出なかったので、波の少ない湾の中でシュノーケリングさせてもらいました。...
高野山大学にスピリチュアルケア学科を立ち上げる準備として、サンフランシスコの禅ホスピスプログラムを視察に行った時のこと。ラグナホンダ病院の緩和ケア病棟の中庭で見つけた風景です。 ここで亡くなっていった患者のご家族さんたちが、ボランティアとして手作りしたという中庭の一角にありました。...
天隨念をご紹介したので、仏教の世界観における神と阿修羅の関係について述べてみたいと思います。輪廻思想の中では、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六道輪廻が一般的ですが、その前は地獄・餓鬼・畜生・人間・天の5道輪廻だったようです。5道から6道に変わった理由は、高い能力を持った神々の間で争いが起こり、破れた神が天界から堕ちて修羅の世界ができたのだそうです。 高い能力を持った存在が争って堕天するというのは西洋の悪魔思想にも通じるものがありますね。ちなみに仏教の中での悪魔は、ブッダに付き従いさまざまに妨害したりちょっかいを出してきたりしますが、ブッダが悪魔を退ける時の決まり文句は「お前は、私によって見透かされた」というものです。闘う対象ではなく、その真の姿を見極める対象として悪魔が設定されていて、その居場所もちゃんとあったのです。悪魔は、生と死を恐れることの象徴だとされて、その働きは、人々を輪廻転生につなぎ留めておくことだとされています。解脱することは、悪魔の支配する範囲から出て行くことなのです。そしてブッダから見透かされた悪魔は、攻撃されることもなく破壊されることもなく、そんなブッダの風景の片隅で、困惑してつまらなそうに地面に絵をかきながらふてくされています。 『ホモサピエンス全史』を書いた博学のハラリは『ホモ・デウス』という本の中でテクノロジーによって神の領域に足を踏み入れた人類の未来について、人間至上主義によって不死と幸福を求め続けることの幻想性とデストピアに至る危険性を指摘しています。ちなみに、ハラリはマインドフルネス修行をしているようですので、この神と阿修羅の争いについて知っていたのかもしれませんね。 幹細胞やiPS細胞の技術による再生医療が進められ、生殖医療や遺伝子操作技術も加速する中で、コロナ禍を体験した私たちは、今こそ自分たちの中にある神性と阿修羅性をしっかりと見つめて、どちらをどのように使いこなしてゆくかについてマインドフルに取り組まなければならないのだと思います。 そのためには、今回の新型コロナウィルスの出所がどこであったのかについて情報収集を忘れてしまわない努力を続け、ワクチンで大もうけした人たちの仕掛けてくる罠にはまってしまわないように自分の健康を大切に守り、巧妙に戦争を作り出して金儲けをしている人たちの歴史と動きをしっかりと察知しながら、今ここの小さな日常生活の中に思いやりと公平さと正義を実現することを忘れないようにする心がけを積み重ねるマインドフルネスの実践が欠かせません。 波羅蜜と呼ばれてきた人徳を積み重ねる実践は、人類が六道輪廻の全てを生き切る可能性を知り尽くし、実践し尽くして、輪廻から解き放たれ、悪魔も阿修羅も手の届かないところに解放されて、神さまのことも忘れてしまっていいようになる実践なのかもしれないと思う今日この頃です。
お悟りが開けて、輪廻から解き放たれた人たちがよくやるという6隨念のひとつに天隨念があります。神さまのことを繰り返して想い出してみるマインドフルネスの実践です。私は「神さまになったっちゃた瞑想」と呼んで、生徒たちを神社に連れて行って、「さあ皆さんが神さまになったとしたら、お参りに来る人たちにどういう思いを向けてゆくでしょうか…」と話して瞑想してもらうことがあります。 天隨念をするためには、二つのステップがあります。最初は、神さまという存在はどのようなすばらしさや能力を持っているのかを考え、そのようなすばらしさや能力を持つようになるためにはどのような努力を積み重ねた(波羅蜜)のかについて考えを巡らせます。次に、自分にはそのようなすばらしさや能力があるか無いか、それらを獲得するための努力の積み重ねを実践してきたかどうかを考えます。そして、それらが自分にあるならば喜び、その喜びを生きる力にします。備わっていなければ、努力しようと願います。 この瞑想は、言葉を使い思考を巡らすので深い集中状態には入れませんが、このように思いを巡らせることによって心が澄み切り、落ち着いてきます。 さて、「神さま」の修行は何かというと、人々を守り導くことによって修行するのだそうです。人間は神さまにいろんなお願いはしますが、教えたとおりに実践する人は少ないですから、とても難しい修行だと思います。だから、神社に行ってこの瞑想をする時には、「あなたがもし神さまだったら、ここにきていろんなお願いはするけれども、ちっとも教えたとおりに実践しない人たちを、どのように見守り導くことができるでしょうか?」と質問をしてみます。 子どもを育てたり、人を教えてみたりするとよくわかるものですが、人は教えたとおりにはやりませんし、その人なりの仕方でしかできないものです。そのことを承知して、どのようにその人を理解して、環境を整えて、必要最低限の教えを提供してゆけるか、教えたとおりにはやらず、自分なりの仕方でしかやっていかない人間を見捨てずに見守っていけるかが修行になるのです。 生殖医療をはじめとする高度な科学技術で、神の領域に足を踏み入れてしまった現代人だからこそ、実践してみたいブッダの修行法です。 論文(『Devatanussatiに関する瞑想実践としての一考察』)のPDFはこちら ☞
「スピリチュアル」という言葉が注目されるようになったきっかけの一つは、1998年にWHOが健康の定義の改正案を出して、その中で、身体的、心理的、社会的に加えて第4番目の条件としてspiritualという言葉を入れようとしたことによります。この改正案では、スピリチュアルという言葉と同時にダイナミックdynamicという言葉の2語が追加されています。...