マインドフルネスは集中力と洞察力を巧みに組み合わせながら、日常生活のあらゆる場面で実践できるように構成されています。伝統的には止観(samatha-vipassana)と呼ばれる集中力と洞察力の組み合わせ方については、以下の4通りの仕方がアングッタラ・ニカーヤ(増支部 A.II.157.)に説かれています。
- 集中力を先に修行してから洞察力を養う
- 洞察力を先に修行してから集中力を養う
- 集中力と洞察力を組み合わせて養う
- 高揚体験が落ち着いて心が内面に向かったときに(洞察の)道が開ける。
ブッダ自身は、アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタというヨーガの師匠の下で集中力によって得られる最高の境地に到達します。「何もない」という無所有処三昧、「あるのでもないのでもない」という非想非非想処三昧心と呼ばれる、身体性を超越した無色界禅定です。しかしこれらの三昧(samadhi:精神集中)では、輪廻からの解脱には到達できないことを知り、「一緒に弟子たちを教えよう」という師匠の誘いを断って、彼らのもとを去ります。
それから、断食と息こらえを中心とした6年の苦行によって生命現象の限界を見極めた後で、洞察瞑想によって悟りを開き解脱します。経典の定型句では、洞察の内容は①前世を思い出すこと(宿住念智)、②どのようにして死んでどのように再生して育っていくのか死生のつながりを洞察すること(死生智・天眼智)、③「私」という個人の枠を超えて心身相関現象の不確定性(無常・苦・無我)を洞察することで苦しみを生み出す煩悩を超えること(漏尽智)、にまとめられています。
6年間にわたる苦行では、周囲から「シッダッタは死んでしまった」と思われるほど厳しい修行をしていたようです。意識を失い、しばらく倒れていた後で、ゆっくりと意識を回復して起き上がってきたようなことも何回かあったのでしょう。彼は、意識が薄らいでゆく時の様子、意識が回復して、次第にハッキリとしてきて、体力の回復につれて欲望などの感情が戻ってくる経過の中で、意識にはいくつもの層があることをつぶさに観察していたはずです。おそらくそれは、現代の臨死体験の研究や脳科学、そして認知心理学に近いものだったのではないかと思われます。「私」という仮想現実が、心身相関現象という複雑系の中からどのように創発してくるかを、極限状態の中でつぶさに見つめてきたのです。
ブッダが布教を開始した当初の弟子たちの多くは、すでに高い集中力を得ていた人たちが多かったようなので、その素地の上に洞察の道を開いてあげると、ブッダと同じように解脱してゆく弟子たちがいました。これが第1の集中力を先にしてから洞察力を養うタイプです。
第2のタイプは、ブッダの話を聴いただけで悟りが開けて解脱してしまう人たちのような場合です。ある程度心の素地が整っていたのです。いきなり洞察力が高まって解脱してしまった後で、彼らはあらためて集中力を養っていって、レーザービームのように整った心の力で神通力を使って自他のためになることをしながら余生を過ごしました。
第3のタイプは、集中力と洞察力を組み合わせて進んでゆく場合です。私を含めて、現代の多くの人はこのやり方でマインドフルネスを実践しているように思います。瞑想の共同研究で、集中瞑想・洞察瞑想・慈しみ瞑想のインストラクション作成を担当してみて思ったのですが、インストラクションの中で意図していたとおりに実践しているかどうかという問題は極めて微妙なものです。集中法として教えても、そこから自然に洞察に流れて生きやすい人もいるでしょうし、洞察法として教えても、集中法としてしかやれない人もいるようです。瞑想を指導するときは、実践者のそうした性向を考慮してインストラクションを出すものですが、実験用のインストラクションは誰に対しても同じように語り掛けなければならないものなので、指導者とのしての葛藤感じてしまいました。集中法と洞察法のインストラクションの実際の違いについて詳しく知りたい方は、上記のリンクをご参照くださいね。
第4のタイプは、いわゆる宗教体験や神秘体験、あるいは至高体験などを経て、自然な流れで悟りや解脱への道のりを歩いてしまう場合です。おそらくこれは、人類が歩んできた進化の道のりの中で厳しい状況を生き延びた時のパターンが遺伝子に組み込まれてしまい、ある特定の条件下で発現してくるものなのかもしれません。ブッダが解脱を求めて試行錯誤してきた道のりもその一つとして解釈することも可能でしょうし、この第4の場合を、集中法と洞察法によって体系化しようとすると1から3のタイプになると考えてよいのかもしれません。