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光のなかへ

 もう20年近くも前のことになってしまいましたが、サンフランシスコの禅ホスピスプロジェクトを視察に行った時のこと。「『光が見える、光が見える…』って言っている人がいるんだけど、どう対応したものか困っている。たぶん君の専門分野だと思うので、行ってみてくれないか」と、突然にご指名を受けてしまいました。

 ベッドサイドに案内されて行ってみると、その老婦人は手を伸ばして宙を見ながら「光が見える」と繰り返しています。私は耳元に身体を寄せて「光が見えるんですね。じゃあ、一緒に光の中に入って行ってみましょう」を話しかけました。すると、彼女は片手でギュッと私を抱きしめて、もう一方は宙に伸ばしたまま、「光の中…」と言いながら、二人で光の中に入って行きました。

 しばらくすると、「家が見える」と言うではないですか。「どんな家ですか?、家の方に行ってみましょう」と促すと、ドアが開いているようです。開いているドアから、チキンスープの匂いが漂ってきました。「じゃあ、ドアから家の中に入ってみましょうか…」と言って、一緒にドアをくぐろうとする頃、彼女は安心した顔でストンと眠りに落ちてしまいました。

 心配顔で見守っていたスタッフたちは、寝入った彼女の腕をほどいて戻ってきた私の話を聴いて納得したようで、チキンスープの意味を解説してくれました。私が小さかった頃の日本では病気になった時にはおかゆを作って、梅干しや鰹節削りなど載せて食べさせてもらったことがよくありましたが、おかゆのアメリカ版がチキンスープなのだそうです。病気になった時、優しく看病してもらい、早く元気が回復するようにと食べさせてもらうお母さんの味なのです。

 「光が見える」と言っていた彼女の「光」は、近づいてきた死を安らかに受けとめられるように、小さかった頃の優しいお母さんの思い出への入口だったのだと思います。