「スピリチュアル」という言葉が注目されるようになったきっかけの一つは、1998年にWHOが健康の定義の改正案を出して、その中で、身体的、心理的、社会的に加えて第4番目の条件としてspiritualという言葉を入れようとしたことによります。この改正案では、スピリチュアルという言葉と同時にダイナミックdynamicという言葉の2語が追加されています。
改正案を訳してみると以下のようになります。「健康とは、単に病弱でないことではなく、身体的、心理的、社会的(そしてスピリチュアル)に相補い合いながら良好な(ダイナミックな)状態である」
この改正案のポイントは、健康とは一定の状態ではなく、身体的側面と心理的側面と社会的側面と(そしてスピリチュアルな側面)が相補い合いながらダイナミックに揺れ動いてゆくものであるということになります。そこから見えてくる「スピリチュアル」が担うものは、たとえ身体的・心理的・社会的に辛い状況であっても、スピリチュアルな側面が開かれて働いていることで、何とか生き抜いてゆく力が湧き上がって来るものだということです。
この改正案は、提案したのがイスラム医療を継承する中東諸国だったという理由もあって、採択されずに議長預かりのままの状態が続いているようです。しかし、WHOの緩和ケアの定義の中ではすでに「スピリチュアル」という言葉が入って、スピリチュアルケアの重要性が認められていることに示されるように、現実的にはこの改正案の方向で動いているとみてよいと思います。
日本では、改正案が出された時に、すでに決まったように受け取られてしまい、spiritualをどう訳すかという議論だけが先走ってしまい、スピリチュアルとダイナミックという2語のつながりについての考察は全くなされてきませんでした。現代日本の弱点を示してしまったよい例かもしれませんね。
何か新しい言葉、概念、手法、流派などが外国から紹介されるときには、すぐに飛びついてしまうのではなく、その言葉や概念や手法などが、どういう歴史の中で、どんな先人たちの努力を引きつきながら生まれてきたものなのか、しっかりと総合的にとらえてみる必要があります。そうすると、日本にも似たようなものが昔からあったことに気づくことも少なくないのではないかと思います。
私自身は、スピリチュアルというカタカナにしたままで、その場に応じて、「三つ子の魂百まで」とか、「袖触れ合うも他生の縁」とか、「もったいない、ありがたい」とか、「お天道様が見ている」とかいろいろな言い回しを使いながら、それぞれの腑に落ちるまで考えてもらうように心がけています。魂とか霊とかいう言葉を使うこともありますが、そういう時には、縁起とか空とか無我とか中道とかいうマインドフルネスの実践的哲学をそっそと添えるようにしています。